感 : Perception
「先生、今の技わからない。」
「手の位置はこうですか?それともこうですか?」
「どのタイミングで切ればいい?」
のような質問はなかなか言葉で説明するのが難しい。だから口で説明より実際に無言でゆっくりと技を行う方がいい。
・吉川英治が書いた「武蔵」で宮本武蔵が宝蔵院に行くときのエピソードがあります。
武蔵がお寺の畑に近道しました。その畑に一人のお坊さんが鍬で手入れして、武蔵のことを無視したようです。
その時、武蔵が威嚇されて、間もなく攻撃されると強く感じました。 その攻撃される予感はあまりに強く、武蔵が飛びあがてしまった。 気が付くと何も変わらなかった。お坊さんの様子は変わったなくて、そのまま手入れ続けた。
その庭師は武蔵に対して何も用がなかったが、武蔵の心が動いてしまった。数ページ後、その庭師は宝蔵院の隣の寺の院長たということがわかる。その院長は後で武蔵と話すときに武蔵が強すぎて、何も危険がない環境は既に危険であること思い込んでいると言って、武蔵はもう少し弱くなりなさいと教えた。
このエピソードは「感」について極端なことですが、例えとしてよく思い浮かぶる。
「感」は「口」、「まさかり(戉)」と「心」から成り立つ。
まさかりで威嚇される前に、口で威嚇される。
口で威嚇される前に、心が動く。
武道家にとって「感」は不可欠なことです。 稽古は口コミや文書より物理的な指導が多い。 それで先生がいくつかの関連なさそうな技をを紹介しますが、必ず共通点があるはず。 その共通点は先生が教えると稽古にならない。本当は生徒が「感」を使ってその共通点を引き出すべき。
武道は頭で理解する前に体で理解します。そして体が理解する前に心が理解します。
子供は「感」の塊だ。大人は見るものを頭で理解しないとわからない人が多い。逆に子供は体を使って見るものを理解するからスポーツや武道は覚えるることが早い。
武道で、Beginners mind(初心者の心)とよく聞きますが、その心は「子供の心」、ようは「感」じゃないかと思います。